DANCEは元々キリスト教徒が音楽に合わせてその神聖を男女が楽しんだのが始まりです。
それが神聖を競い合うようになり、それを世界中に広めた結果、世界選手権ではその国のナショナリズムを競うようになりました。
しかし神聖というものをジャッジするのが元競技選手で聖人でも神でもないのですから、何をもって神聖とするかは、はなはだ疑問が残ります。
人間が自分の中の神聖でジャッジ出来たかどうかは不確定であると言わざる得ません。
つまり人間性でジャッジされても何の不思議もないのです。
だから日本人や中国人等、神聖を社会が拒否している国の人間がジャッジをするようになった今では、神聖どころか現実性で当落を決められている感さえあります。
どうすれば世界の人間に気に入られるか?
答えは簡単です。
賄賂・付け届け等中国・韓国が世界に常用している方法を使えば良いのです。
今や世界中がカネで動いています。
マネーによって人間の正義は曲げられてしまっているのです。
しかし良く考えてみると、元々人間の正義などというものは、ずっと捻じ曲げられてきたのですから今更驚くことはありません。
しかし神聖というものは現存していることも確かです。
私は「水清くして魚住まず」などと結論付けるつもりは有りません。
私達人間は「浄と不浄の狭間で生きている」ということを自覚しなければいけないと結論付けたいのです。
だから「程度」が大事だということなのです。
しかし私達日本人というのは極端に「禊払い」したがる民族で、まさしく「ALL OR NOTHING」だけで生きていく感があります。
つまり中途半端が嫌いなのでしょうね。
だからダンスにおいても日本人は徹底的に神聖を排除します。
そのくせ西洋人の神聖に憧れるという始末におえない面も持っています。
昔私は西洋のコーチャーに「DANCEを理解するには右と左を理解して中道を進まなければならない」と諭されたことがあります。
「御釈迦様を手本にして進みなさい」とも言われました。
今私が皆様に言えることは、「中道とは確定的ではなく不確定的である」ということです。
つまり「神聖と人間性のパーセンテージは、時と場所そしてそれを必要としている人間によって、変化させなければならない」ということなのです。
早い話が同じデモでも「慶山でのそれとKDSでのそれと、横浜でのそれとでははっきりと変えて下さいよ」と言いたいのです。
何故ならそこでの神聖と人間性は変化しているからなのです。
人間に見せるのと神様に見て頂くのと、そのパーセンテージを決めるのは「戦いの戦略」なのです、、、。
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